「常識」とは何か。現代人はあまりにも多くの「常識」に縛られている。
いきなり私自身の話になりますが、
私は、昔から「常識」という言葉が大っ嫌いでした。
なぜなら、私の本当にやりたいことがあるときに、いつも「常識」に無駄なお金と時間を削り取られていたからです。
例えば、私は実家から遠く離れた地の国立大学に入りたくて、高校時代はほとんど遊ばずに勉強していました。
必死に受験勉強をしている、ある日のこと。
部活の同級生全員で、街で1日遊ぼうという話題が出ました。
とはいっても、正直部活の同級生とはそこまで仲が良くなかった。
仲の良い友達と遊ぶのならストレス発散にもなって良いかなと思っていましたが、受験期に仲良くない人たちと1日過ごすことに価値を見いだせず、一人だけ断りました。
そうすると、周囲からとんでもなく怒られました。
「お前、人付き合い悪すぎだろ!みんな集まるときは参加するのが常識だろ!!」
と、意味わからない言葉が飛んできました。
さらには、親や教師からも似た様なことを言われました。
周囲がうるさくて勉強に集中できなかったので、渋々参加することに。
今思えば、自分の将来の目標に対する阻害要因でしかありませんでした(それでもちゃんと第1志望に合格はしました)。
あれから10年たった今でも、現代人はあまりにも多くの「常識」にとらわれていると思わざるを得ません。
世の中、楽な仕事をして生きていけるほど甘くないだとか、
嫌なことがあっても我慢して努力を続けるべきだとか、
大企業か公務員になるのが良いだとか、
結婚して子供を持たないと1人前にはなれないだとか、
老後のために若いうちから貯金をしておくべき、だとか。
全部バカバカしいです。
そもそも「常識」とは何なのでしょうか?
常識(じょうしき)は、社会を構成する者が有していて当たり前のものとなっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。[要出典]また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。対義語は非常識(ひじょうしき)。社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、「常識」とは、その人や社会によって変わる、ということですね。
「常識」なんてない、と手っ取り早く実感す方法があります。
海外へ行くことです。
例えば、東南アジアでは、歩道をバイクが普通に走っています。
信号なんてあるのか無いのか、ってレベルで信号無視してます。
また、平気で人を騙してきますww
私は東南アジアを何か国が旅してきて、いかに「日本」という狭い世界で生きてきたのであろうと感じました。私の中の「常識」が、一気に崩れ去りました。
アルベルト・アインシュタインの有名な言葉に、
「常識とは18歳までに積み上げられた先入観の堆積物だ」
というものがあります。
つまり、常識なんてその人次第でいくらでも書き換えられるということ。
社会人として働いている方は、
「これくらいやれよ。社会人の常識だぞ。」
「上司に飲み会に誘われたら参加しろ。社会人の常識だぞ。」
という言葉を掛けられることもあると思います。
それが理に適っていれば良いです。
しかし、大抵はその「人」や「会社」独自の偏見となっていることでしょう。
特に大企業に勤めている人であれば。
なぜかというと、ほとんどの先輩や上司が、人生の中で1つの会社しか経験していないからです。
1つの会社でずっと働き続けることで、その会社独自の価値観を擦り込まれ、気づかないうちに「会社の常識」=「世の中の常識」となっていると思います。
その会社の古くからの価値観・不必要な慣習を壊し、周囲から「非常識」と思われることは、楽しいことだと思います。
自分と会社が成長する機会を作ることが出来たのですから。
私は海外ひとり旅が大好きですが、その理由の1つに「自分の中の常識を覆すことができるから」です。
ぜひ海外へ出てはいかがでしょうか。
とても楽しいですよ。
海外ひとり旅の魅力。旅は君を圧倒的に成長させる! - 毎朝2時に起きる男の雑記
「海外へ行く」以外に、自分の中の常識を変える方法は以下のようなものがあります。
1、転職する
2、住む場所を変える
3、社外の人と交流する
自分の生活する「環境を変える」レベルになると常識は簡単に書き換わります。
幸せな人生を送るためにも、後悔しない人生を送るためにも、「常識」を捨てることは必要だと思います。
常識にとらわれずに過ごしていきたいですね!